盛日和

日記のようなもの

「ペンは剣より強い方がいいんでしょうか?」という問いに対する村上春樹の回答

少し前にいいなと思ったツイート。27歳女性が寄せた「『ペンは剣よりも強し』だと思いますか」との質問に村上春樹が応じたものです。以下、ツイートから抜粋します。

 すごく正面切っての質問で、びびってしまいます。ペンは剣よりも強いか? そのとおりです。ペンは剣よりも強いですよ、もちろん、と断言したいところですが、昨今はなかなかそうとばかりも言えない部分が多いです。テロもありますし、ネットの炎上みたいなこともあります。ものを書くときにはじゅうぶん用心深くならなくてはなりません。
 僕は普段は、基本的にむしろ「ペンがあまり強くなりすぎないように」ということを意識して文章を書いています。僕の文章ができるだけ人を傷つけることがないようにと思って、言葉を選ぶようにしています。でもそれはとてもむずかしいことで、何を書いてもそれによって傷ついたり、腹を立てたりする人が、多かれ少なかれ出てきます。これはある程度しょうがないんです。でも、それにもかかわらず、できる限り、人を傷つけない文章を書くことを心がけなくてはならない。これは文章を書く人間にとっての大事なモラルなのです。
 でもそれと同時にいざ闘うべきときだと思ったときには、闘えるだけの胆力(ぐっと腹に力を入れる力のことです)を蓄えておかなくてはなりません。でもそれは本当にいざというときのためのものです。みだりにペンを剣より強くしちゃうのは危険なことです。と僕は個人的に考えています。ほかの考え方をする人もいるでしょうが。

この回答がいいなと思った理由を考えたいのですが、第一に、村上春樹が質問に答えるにあたって、あり合わせの、出来合いの思想に寄りかかるのではなくて、10分なり15分なり、ちゃんと質問に向き合って答えを出したということがじわりと確かに伝わってくるからです。

普通であれば、(慶応義塾のシンボルにもなってるくらいなのだから)、ペンが剣よりも強いのは当然のことだ、じゃあ、「ペンは剣よりも強い」という事実を補強するような最近の時事なり自身の体験を話そう...となるはずです。

しかし、村上はここでぐっと一段深く潜っています。そしてペンが持つ危うさについて論じるのです。この一見面倒かもしれない沈潜を経て紡がれた言葉だからこそ、私の胸に届いたのではないかと思います。

この回答がいいなと思った第二の理由は、回答終盤の箇所です。

でもそれと同時にいざ闘うべきときだと思ったときには、闘えるだけの胆力(ぐっと腹に力を入れる力のことです)を蓄えておかなくてはなりません。でもそれは本当にいざというときのためのものです。

ここも、ああそうだよなあとひどく納得しました。

急に話が変わるようですが、現代の若者の特徴には、「やさしい」があると思います。親世代のようにグレて盗んだバイクで走りだしたりすることはなく、それなりに協調できて、セクハラおじさん的なイタい言動をとるでもなく、大学や国会前でデモ活動をするでもなく、適切な距離感で社会を生きているのが我々世代の特徴であるように思えます。

でも最近「やさしさ」だけでは生きていかれないような気がしてきました。普段は穏やかでいいけれど、心の底にある価値観や、社会通念に照らしてみてもやっぱりここだけは譲れないよなというようなもの(モラル?)が破壊されそうになったとき、消えそうになっているとき、何者かによって奪われようとしているときは、やっぱりそれに抗えるだけの力がいるんじゃないかと思うようになりました。それを村上春樹は「胆力」と呼んでいるのかもわかりません。

夏目漱石は「愚見数則」で次のように述べています。

人を観ばその肺肝を見よ、それが出来ずば手を下す事勿れ、水瓜の善悪は叩いて知る、人の高下は胸裏の利刀を揮って真二に割って知れ、叩いたくらいで知れると思うと、飛んだ怪我をする。(夏目漱石漱石人生論集』, p.11, 講談社学術文庫, 2015年)

平時は処女の如くあれ、変事には脱兎の如くせよ、座る時は大磐石の如くなるべし、但し処女も時には浮名を流し、脱兎稀には猟師の御土産となり、大磐石も地震の折は転がる事ありと知れ。(前掲, p.12)

権謀を用いらざる可らざる場合には、己より馬鹿なる者に施せ、利慾に迷う者に施せ、毀誉に動かさるる者に施せ、情に脆き者に施せ、御祈禱でも呪詛でも山の動いた例しはなし、一人前の人間が狐に胡麻化さるる事も、理学書に見えず。(前掲, p.12)

普段は処女のように力を誇示したりせず、なんなら弱弱しくあるくらいがよい、しかしいざという時には脱兎のように素早く動いて決着を付けなさい ということだろうか。これは先の村上春樹の文章にも通ずるように思う。普段はちゃんと相手を思いやって、相手を傷つけない文章を書きなさい、ただし、いざという時には、言葉を尽くして主張すべきを主張する。現代的な「やさしさ」に逃げてはならない。

その「いざという時」を見極めるには、普段から人間をよく観察しておかなければならない。漱石が云うように肺肝を見なければいけない。そして、いざという時──どうしても胆力を発揮しなければならない時──には、馬鹿で、私利私欲に惑い、名声や世間体に囚われ、感情的な人間を真っ先に追い込め ということでしょうか。漱石先生、けっこう怖いこと言うんだよなあ。

www.amazon.co.jp

www.amazon.co.jp