盛日和

日記のようなもの

結婚の決め手

結婚の基準について、ある小説家が「『この人と一緒にいたらぜったい退屈しないだろうな』と思えることです。どれほどいろんな条件が揃った人でも、『退屈だな』と感じたら、まずやっていけません。退屈なのってきついですよ。」と書いておられた。

「退屈しない人」というのはシンプルだけれど正鵠を射ているように思われたので、こうしてブログに書き起こしているというわけ。実際に僕が結婚相手について考えあぐねているような差し迫った状況ではないのだけれど、やっぱりこのような話題に敏感になるというのは僕の中の無意識層に何かちらついているものがあるのだろう。自分の外にある事象(今回は結婚相手に関する一つのアフォリズム)を出発点にして、自分の内にある形のない闇の中を探っていくというのは、ときどきやっておいたほうがいいのかもしれない。

それにしても、「大人になる」ってどういうことなんでしょうか。僕は20歳をとうに越してしまったので、たとえば結婚をして子供をこしらえたりすれば少しは大人に近づくのかもしれない(父親という役割をとおして発達段階を一つステップアップできるのかもしれない)などと考えたりしていたが、おそらくそれは幻想にすぎないのだろう。結局のところ、過去の自分と今の自分の延長線上に30歳の僕や40歳の僕がいるというだけであって、何かの出来事単体によって劇的で非連続な変化が起きるという性質のものではない。おそらく。

しかしながら、僕の人生を少しでも100%のものにしていくために、今いる場所に閉じこもっていないで、絶えず自分自身を更新していくこと――世界の拡張と言ってもいいかもしれない――を大事にしていこうと思う。自分というのは「自分そのもの」にあるのではなくて、自分と外界のなにかとの関係性とのあいだに生まれてくるものだから。その関係性のなかに立ち現れてきた自分に対して耳を澄まし、それを愛するというのは、健康的な自己愛の在り方だと思う。

そうして世界を拡張していくなかで、ある朝僕は100%の女の子と出会うかもしれないし、あるいは87%の女の子と出会うことになるかもしれない。はたまたすとんと恋に落ちてしまえば、結婚の基準なんて参照しなくても「君と一緒に暮らせたら」などと考えざるを得ないような状況になっているような気もする。

人生とは単に容れ物であって、そこに何を詰め込んでいくかは自分次第。鞄にこだわるのではない。鞄に何を入れ、何を入れていかないのか。こういうふうに考えると、勇気をもって生きていくこともあんがい楽しくなってくるのではないでしょうか。